乃至政彦「戦国の陣形」 [書評]
乃至政彦「戦国の陣形」講談社現代新書
この本は戦国時代の合戦で用いられたとする陣形についての本である。古代律令制の軍団の陣形から始まって、源平合戦や南北朝・室町前期の合戦時の戦闘部隊の状況、そして武田・上杉を嚆矢とする戦国時代後期の陣形の解説と進んでいく。全体としてみると、鶴翼だの魚鱗だのという陣形は虚像であり、実際に本当の意味で陣形というのが出来上がってくるのは武田・上杉の合戦の頃、ということという内容である。
陣形と言っても、諸葛孔明八陣法と言われるような鶴翼、魚鱗、偃月、鋒矢という陣形は八陣法の誤解からの伝言遊びのような誤解が数百年の間に成長し、江戸時代の軍学書に定着した虚構であるとする。実は三国志演義(元代〜明朝初期に成立)にも魚鱗、鳥雲の陣などは出てくるので(官渡の戦いよりも前の袁紹と曹操の戦いで、袁紹は魚鱗、曹操は鳥雲の陣と書かれている)、日本だけの虚構ではなく、中国大陸との影響のやりとりはあると思う。そのあたり、本書でも触れられているけど、ちょっと不十分であるとは言える。
ちなみに、本書によれば、本来の諸葛公明八陣法は3×3の9マスの中央に主将が在陣し、その前後左右斜めに8つの部隊が配列している陣。それを八種類の陣形と誤解して、勝手に8種類列挙していった室町・江戸期の軍学書が、陣形の誤解をいっぱい生んできた要因としている。これは面白い見方であり、私もそうなのかと納得した。
南北朝以降の室町時代の合戦でも、武田・上杉が陣形に画期的な提案をする前は、陣形と言っても「鶴翼と言ったらサッと拡がり、魚鱗と言ったらグッと密集」という程度の知識の武将らによる陣形なので、実際に本人達の記録で鶴翼や魚鱗が出てきても、精緻な陣形を指しているのではない、というのが乃至氏の主張である。もう少し裏を取りたいところだけど、これも説得力がある主張である。
さて、甲陽軍鑑を頼りにすると、いわゆる陣形というのを本格的に導入したのは武田信玄であり、それは山本勘助の助言による。例えば1万の軍勢を千人ずつの部隊に分け、それぞれを家老並みの部将に率いさせて、「全軍を鶴翼の陣形とする。まず左翼は品川、大崎、目黒、恵比寿の各部隊、右翼には澁谷、原宿、代々木、新宿の各部隊が並び、中央に大久保と余が率いる本隊が位置し・・・」などという指示をするには、その戦国大名の傘下の各封建領主が率いてきた部隊を千人ずつの軍団に再編成する必要がある。南北朝や応仁の乱の頃までは、各リーダーは助勢に来てくれた各領主の部隊をそのまま戦闘に投入するのが精一杯で、軍団としてきちんと編成することは、したくても出来ない状況だった。それが、関東での北条、武田、上杉という強力な大名の衝突が繰り返される状況で、各領主が連れてきた部隊を軍団として再編成し、さらに兵科別に編成するという近代的な軍隊の様相を呈するに至る。このあたりは、西股総生「戦国の軍隊」(学研)で既に述べられていて、北条氏を中心とする記録から北条氏では兵種別編成が戦国時代後期には一般的になっていることが説得力ある説明をされている。
この武田による近代的な軍団編成に対し、衝撃的な勝利を収めたのが上田原の戦い(天文17年)で武田軍を撃破した村上義清である。甲陽軍鑑によれば村上義清は強力な武田軍相手に弓勢・鉄砲勢・騎馬・徒歩勢の3兵種の分割し、まず弓、次に鉄砲の一斉射撃、そして騎馬隊の突撃とそれに続く徒歩兵の部隊の攻撃で武田軍が誇る陣形(軍団ごとで編成した陣形という当時新しいもの)を完膚無きまでに撃破しているのである。これを、村上義清が後年武田に追われて越後に助けを求めてきたとき、上杉謙信(当時の長尾景虎)によって代替的に上杉軍に採用されたとする。有名な第4次川中島合戦で信玄本隊を撃破して典厩信繁を始め多くの部将を失った武田軍の敗北(実質的には敗北である。信玄はこの合戦の感状を一通も発行していない)は、兵種別編成(弓勢、鉄砲勢、槍勢(歩兵隊)、騎馬勢)を徹底させた上杉軍によるものであった、ということである。ちなみに著名な車掛かりとは陣形ではなく、各兵種の軍勢の繰り引きのことであるとする。これも納得できる。
本書ではこのあと、実際の合戦における陣形について、これまでの説と本書の主張による説を比較して説明する。川中島、三方原、関ヶ原である。数ある合戦からこの3つをピックアップした意味は、今ひとつわからないが、まぁいいとしよう。川中島については上杉による車掛かりが繰り引きであって陣形ではなく、謙信による機動的な兵の運用に、信玄の、諸葛公明八陣のような信玄本隊を中心にした八陣が敗れたとする。このあたりは説得力があり、納得できる。
次が三方原である。参謀本部編「日本戦史」にある陣形を掲げ、さらに「武家事紀」に掲げる陣形を掲げ、いずれも実際とは違うとしながら(これは納得)それ以上突っ込んでいない。ただ、三方原については、高柳光壽『三方原之戦』という三方原合戦では金字塔のような研究書があり、ここに掲げた陣形が俎上に挙げられていない点は不満である。高柳氏は「甲陽軍鑑」「松平記」「信長公記」「武家大成記」「服部半蔵武功記」「三河物語」などを基に、陣形図ではなく、それぞれの資料に記されている合戦経過での戦いの時系列から整理して両軍の陣形を推定しようとしている。
まず、徳川側の陣形であるが、これは「甲陽軍鑑」に記されている上原能登守(小山田信茂家臣)の「徳川勢は一重で厚み無し」という報告から、一重の横隊であると推定する。少し前の姉川合戦での徳川方の陣形も参考にすると、徳川勢は酒井忠次麾下と石川教正麾下の2つの軍団に別れ、さらに三方原の場合は佐久間信盛・平手汎秀などの織田からの援兵と家康旗本の第一線での戦闘が見られることから、3軍団に別れ、その3つを横に並べた上にその後ろに家康本隊があるとする。武田との戦闘の時系列から見ても妥当と思える。
徳川側がほぼ横一線であるとすれば、これと武田のどの部隊がどんな順番で戦うかを記録から追えば、ほぼ武田方の陣形が推定できるというのが高柳氏の思考である。上に掲げた複数の記録からは以下のように戦闘の時系列が整理できる。
1.武田方の小山田隊が徳川方の酒井勢、石川勢と戦闘
2.武田方の山県隊と徳川方の石川勢、家康旗本が衝突。
3.武田方の小山田・山県両部隊がやや引いたところに、武田方の馬場隊が戦線に加わり、酒井勢と衝突
4.武田勝頼隊が家康旗本・石川勢と衝突し、武田方有利に
5.武田方の内藤隊が戦線に参加(内藤隊所属の小荷駄隊の甘利らが小荷駄を置いて戦闘に参加)
6.信玄本隊と穴山隊は動かず
以上から高柳氏が推測した陣形を、私なりに書いたのが、図1である。
武田方の各部隊が3000とすれば、6隊で18000。これに信玄本隊を加えて25000くらいというところか。徳川勢は織田の援軍を併せても1万強と推定されるから、最初の小山田隊・山県隊の6000では徳川勢の総攻撃を支えきれずに引くのは理解できるし、馬場隊の加入で拮抗し、武田勝頼隊・内藤隊の戦闘参加で徳川軍総崩れというのは、数だけで考えて理解できる。以上が高柳光壽「三方原之戦」を基にした三方原の戦いの陣形で、この本は昭和31年に出版されているので、せめて引用して議論はして欲しかった。
そして、関ヶ原である。よく使われる参謀本部編「日本戦史」の関ヶ原の陣形がキレイすぎて、ちょっと信用できないというのは私も納得である。ただ、明治の頃に陸軍を指導したメッケル少佐が陣形を見て「西軍の勝ち」と言ったのは、この両軍陣形図の作成の日時とメッケル少佐の在日の日付から言ってあり得ないというのは、あまり言われていないことで、なるほどと思った。
ただ、本書では筆者は西軍は大垣城からの退却の途中で東軍と裏切った(というか最初から東軍の)小早川秀秋に補足されたのが関ヶ原の戦いとしているが、これはどうだろう。確かにその可能性もあるが、別の可能性もあると考える。関ヶ原の戦いの前日までに関ヶ原南側の松尾山砦に小早川勢が、南宮山に毛利勢・長宗我部勢がすでに布陣している。石田三成ら西軍本隊が笹尾山〜天満山のラインに布陣して、小早川勢、毛利勢と合わせれば、関ヶ原に布陣するであろう東軍を包囲できることはすぐにわかる。西軍圧倒的に有利な陣形である。この西軍有利な陣形を作り出せば、機を見るに敏な戦国武将なら、東軍っぽい小早川勢も旗幟不鮮明な毛利勢も、これは西軍側で勝てるとみて、「裏切って」西軍につくのではないかと期待した陣形なのではないかと私は推察する。西軍に付けば家康を撃滅できる有利な陣形に持って行ったのに、小早川・毛利(正確には吉川広家)の気が変わらなかったので、ダメだったかぁ、というのが関ヶ原の西軍陣形の理由なのではないかと思うのですが、どんなもんでしょう。
本書ではさらに、大阪冬の陣・夏の陣にも一章を割いて陣形や戦闘における鉄砲の割合の多さなどで、通説と違う説を展開し、なかなか説得力ある説明になっている。ここも面白い。
さて、長くなったけど、本書「戦国の陣形」についての感想は以上である。最後に、本書には書かれてないけど、これまでいろいろ言われてきた陣形の中で、斜めに配置する斜行陣(雁行陣)について一言。これは戦闘についてはどうのこうのという議論があるけれど、この斜行陣はそういう陣では無く、相手の出方を見る様子見の陣なのではないか。図2に示したように、斜行陣にしておくと、縦隊にも横隊にも、V字陣形にも逆V字陣形にも簡単に展開できるのである。なので、どの陣形で戦うか、相手の出方をみて決めるという場合に、この斜行陣が使われると私は考えている。なので、川中島での武田信玄本隊も、この斜行陣で待ち受けて、上杉勢の出方で展開する予定が、朝霧の中、いきなり上杉勢に突っ込まれて、この斜行陣のままで戦わざるを得なくなったのかな、という推測も、ちょっとしています。
ともかく、戦国時代の合戦を考える場合、本書と西股総生「戦国の軍隊」の2書は是非、読まれるといいと思います。
この本は戦国時代の合戦で用いられたとする陣形についての本である。古代律令制の軍団の陣形から始まって、源平合戦や南北朝・室町前期の合戦時の戦闘部隊の状況、そして武田・上杉を嚆矢とする戦国時代後期の陣形の解説と進んでいく。全体としてみると、鶴翼だの魚鱗だのという陣形は虚像であり、実際に本当の意味で陣形というのが出来上がってくるのは武田・上杉の合戦の頃、ということという内容である。
陣形と言っても、諸葛孔明八陣法と言われるような鶴翼、魚鱗、偃月、鋒矢という陣形は八陣法の誤解からの伝言遊びのような誤解が数百年の間に成長し、江戸時代の軍学書に定着した虚構であるとする。実は三国志演義(元代〜明朝初期に成立)にも魚鱗、鳥雲の陣などは出てくるので(官渡の戦いよりも前の袁紹と曹操の戦いで、袁紹は魚鱗、曹操は鳥雲の陣と書かれている)、日本だけの虚構ではなく、中国大陸との影響のやりとりはあると思う。そのあたり、本書でも触れられているけど、ちょっと不十分であるとは言える。
ちなみに、本書によれば、本来の諸葛公明八陣法は3×3の9マスの中央に主将が在陣し、その前後左右斜めに8つの部隊が配列している陣。それを八種類の陣形と誤解して、勝手に8種類列挙していった室町・江戸期の軍学書が、陣形の誤解をいっぱい生んできた要因としている。これは面白い見方であり、私もそうなのかと納得した。
南北朝以降の室町時代の合戦でも、武田・上杉が陣形に画期的な提案をする前は、陣形と言っても「鶴翼と言ったらサッと拡がり、魚鱗と言ったらグッと密集」という程度の知識の武将らによる陣形なので、実際に本人達の記録で鶴翼や魚鱗が出てきても、精緻な陣形を指しているのではない、というのが乃至氏の主張である。もう少し裏を取りたいところだけど、これも説得力がある主張である。
さて、甲陽軍鑑を頼りにすると、いわゆる陣形というのを本格的に導入したのは武田信玄であり、それは山本勘助の助言による。例えば1万の軍勢を千人ずつの部隊に分け、それぞれを家老並みの部将に率いさせて、「全軍を鶴翼の陣形とする。まず左翼は品川、大崎、目黒、恵比寿の各部隊、右翼には澁谷、原宿、代々木、新宿の各部隊が並び、中央に大久保と余が率いる本隊が位置し・・・」などという指示をするには、その戦国大名の傘下の各封建領主が率いてきた部隊を千人ずつの軍団に再編成する必要がある。南北朝や応仁の乱の頃までは、各リーダーは助勢に来てくれた各領主の部隊をそのまま戦闘に投入するのが精一杯で、軍団としてきちんと編成することは、したくても出来ない状況だった。それが、関東での北条、武田、上杉という強力な大名の衝突が繰り返される状況で、各領主が連れてきた部隊を軍団として再編成し、さらに兵科別に編成するという近代的な軍隊の様相を呈するに至る。このあたりは、西股総生「戦国の軍隊」(学研)で既に述べられていて、北条氏を中心とする記録から北条氏では兵種別編成が戦国時代後期には一般的になっていることが説得力ある説明をされている。
この武田による近代的な軍団編成に対し、衝撃的な勝利を収めたのが上田原の戦い(天文17年)で武田軍を撃破した村上義清である。甲陽軍鑑によれば村上義清は強力な武田軍相手に弓勢・鉄砲勢・騎馬・徒歩勢の3兵種の分割し、まず弓、次に鉄砲の一斉射撃、そして騎馬隊の突撃とそれに続く徒歩兵の部隊の攻撃で武田軍が誇る陣形(軍団ごとで編成した陣形という当時新しいもの)を完膚無きまでに撃破しているのである。これを、村上義清が後年武田に追われて越後に助けを求めてきたとき、上杉謙信(当時の長尾景虎)によって代替的に上杉軍に採用されたとする。有名な第4次川中島合戦で信玄本隊を撃破して典厩信繁を始め多くの部将を失った武田軍の敗北(実質的には敗北である。信玄はこの合戦の感状を一通も発行していない)は、兵種別編成(弓勢、鉄砲勢、槍勢(歩兵隊)、騎馬勢)を徹底させた上杉軍によるものであった、ということである。ちなみに著名な車掛かりとは陣形ではなく、各兵種の軍勢の繰り引きのことであるとする。これも納得できる。
本書ではこのあと、実際の合戦における陣形について、これまでの説と本書の主張による説を比較して説明する。川中島、三方原、関ヶ原である。数ある合戦からこの3つをピックアップした意味は、今ひとつわからないが、まぁいいとしよう。川中島については上杉による車掛かりが繰り引きであって陣形ではなく、謙信による機動的な兵の運用に、信玄の、諸葛公明八陣のような信玄本隊を中心にした八陣が敗れたとする。このあたりは説得力があり、納得できる。
次が三方原である。参謀本部編「日本戦史」にある陣形を掲げ、さらに「武家事紀」に掲げる陣形を掲げ、いずれも実際とは違うとしながら(これは納得)それ以上突っ込んでいない。ただ、三方原については、高柳光壽『三方原之戦』という三方原合戦では金字塔のような研究書があり、ここに掲げた陣形が俎上に挙げられていない点は不満である。高柳氏は「甲陽軍鑑」「松平記」「信長公記」「武家大成記」「服部半蔵武功記」「三河物語」などを基に、陣形図ではなく、それぞれの資料に記されている合戦経過での戦いの時系列から整理して両軍の陣形を推定しようとしている。
まず、徳川側の陣形であるが、これは「甲陽軍鑑」に記されている上原能登守(小山田信茂家臣)の「徳川勢は一重で厚み無し」という報告から、一重の横隊であると推定する。少し前の姉川合戦での徳川方の陣形も参考にすると、徳川勢は酒井忠次麾下と石川教正麾下の2つの軍団に別れ、さらに三方原の場合は佐久間信盛・平手汎秀などの織田からの援兵と家康旗本の第一線での戦闘が見られることから、3軍団に別れ、その3つを横に並べた上にその後ろに家康本隊があるとする。武田との戦闘の時系列から見ても妥当と思える。
徳川側がほぼ横一線であるとすれば、これと武田のどの部隊がどんな順番で戦うかを記録から追えば、ほぼ武田方の陣形が推定できるというのが高柳氏の思考である。上に掲げた複数の記録からは以下のように戦闘の時系列が整理できる。
1.武田方の小山田隊が徳川方の酒井勢、石川勢と戦闘
2.武田方の山県隊と徳川方の石川勢、家康旗本が衝突。
3.武田方の小山田・山県両部隊がやや引いたところに、武田方の馬場隊が戦線に加わり、酒井勢と衝突
4.武田勝頼隊が家康旗本・石川勢と衝突し、武田方有利に
5.武田方の内藤隊が戦線に参加(内藤隊所属の小荷駄隊の甘利らが小荷駄を置いて戦闘に参加)
6.信玄本隊と穴山隊は動かず
以上から高柳氏が推測した陣形を、私なりに書いたのが、図1である。
武田方の各部隊が3000とすれば、6隊で18000。これに信玄本隊を加えて25000くらいというところか。徳川勢は織田の援軍を併せても1万強と推定されるから、最初の小山田隊・山県隊の6000では徳川勢の総攻撃を支えきれずに引くのは理解できるし、馬場隊の加入で拮抗し、武田勝頼隊・内藤隊の戦闘参加で徳川軍総崩れというのは、数だけで考えて理解できる。以上が高柳光壽「三方原之戦」を基にした三方原の戦いの陣形で、この本は昭和31年に出版されているので、せめて引用して議論はして欲しかった。
そして、関ヶ原である。よく使われる参謀本部編「日本戦史」の関ヶ原の陣形がキレイすぎて、ちょっと信用できないというのは私も納得である。ただ、明治の頃に陸軍を指導したメッケル少佐が陣形を見て「西軍の勝ち」と言ったのは、この両軍陣形図の作成の日時とメッケル少佐の在日の日付から言ってあり得ないというのは、あまり言われていないことで、なるほどと思った。
ただ、本書では筆者は西軍は大垣城からの退却の途中で東軍と裏切った(というか最初から東軍の)小早川秀秋に補足されたのが関ヶ原の戦いとしているが、これはどうだろう。確かにその可能性もあるが、別の可能性もあると考える。関ヶ原の戦いの前日までに関ヶ原南側の松尾山砦に小早川勢が、南宮山に毛利勢・長宗我部勢がすでに布陣している。石田三成ら西軍本隊が笹尾山〜天満山のラインに布陣して、小早川勢、毛利勢と合わせれば、関ヶ原に布陣するであろう東軍を包囲できることはすぐにわかる。西軍圧倒的に有利な陣形である。この西軍有利な陣形を作り出せば、機を見るに敏な戦国武将なら、東軍っぽい小早川勢も旗幟不鮮明な毛利勢も、これは西軍側で勝てるとみて、「裏切って」西軍につくのではないかと期待した陣形なのではないかと私は推察する。西軍に付けば家康を撃滅できる有利な陣形に持って行ったのに、小早川・毛利(正確には吉川広家)の気が変わらなかったので、ダメだったかぁ、というのが関ヶ原の西軍陣形の理由なのではないかと思うのですが、どんなもんでしょう。
本書ではさらに、大阪冬の陣・夏の陣にも一章を割いて陣形や戦闘における鉄砲の割合の多さなどで、通説と違う説を展開し、なかなか説得力ある説明になっている。ここも面白い。
さて、長くなったけど、本書「戦国の陣形」についての感想は以上である。最後に、本書には書かれてないけど、これまでいろいろ言われてきた陣形の中で、斜めに配置する斜行陣(雁行陣)について一言。これは戦闘についてはどうのこうのという議論があるけれど、この斜行陣はそういう陣では無く、相手の出方を見る様子見の陣なのではないか。図2に示したように、斜行陣にしておくと、縦隊にも横隊にも、V字陣形にも逆V字陣形にも簡単に展開できるのである。なので、どの陣形で戦うか、相手の出方をみて決めるという場合に、この斜行陣が使われると私は考えている。なので、川中島での武田信玄本隊も、この斜行陣で待ち受けて、上杉勢の出方で展開する予定が、朝霧の中、いきなり上杉勢に突っ込まれて、この斜行陣のままで戦わざるを得なくなったのかな、という推測も、ちょっとしています。
ともかく、戦国時代の合戦を考える場合、本書と西股総生「戦国の軍隊」の2書は是非、読まれるといいと思います。
タグ:戦国時代
【書評】 第一次世界大戦 [書評]
第一次世界大戦 木村 靖二著 ちくま書房
1914年から1918年まで戦われた第一次世界大戦は、日本がほとんど参加しなかった事もあって、日本ではその詳細はあまり知られていない。実際には日本は連合国の一員としてドイツ・オーストリア・トルコなどと戦っていて、中国山東半島の青島にあったドイツ領を占領したのを初め、海軍は艦隊を地中海に派遣しているし、陸軍にも欧州方面への出兵要請があった(日本政府は断った)くらいで、決して圏外だったわけではないのだが、国を挙げて戦った日清日露や満州事変・日中戦争・第二次世界大戦と比べると、日本人の意識からは遠い存在と言えるのが第一次世界大戦であろう。
ただ、ヨーロッパの国境線で見ると、第一次世界大戦の前後で大きく変わっていて、少なくとも国境線だけで言えば、第一次世界大戦後と第二次世界大戦後とでは大きな変化はない。つまり、ドイツ帝国・オーストリア帝国・ロシア帝国という3つの巨大な帝国が消滅し、その3帝国の周辺領土あたりに小国がいくつも独立していったのが第一次世界大戦後の世界であり、それが現在に及んでいるという意味では、ヨーロッパではむしろ第一次世界大戦の方が大きな戦いであったという印象なのだろうと思う。
本書は、そうした、今まで日本人には馴染みがなかった第一次世界大戦を新書でコンパクトに詳述した本であり、ヨーロッパについていろいろと考える機会のある人には、ぜひ一読をとオススメしたい本である。ヨーロッパ人は当然ながらどの人でも本書の内容くらいは熟知しており(日本で言えば幕末の歴史くらいの認知度?)、特に歴史を必要とする人でなくてもヨーロッパ人と交際する機会がある人なら、読んでいて損は無いと思う。
本書を読んで思うのは、第一次世界大戦というのは、塹壕に籠もって地味に戦った戦争という印象だが,実際には両軍しのぎを削って戦っている。戦線もそれなりに動いている。ただ、この時代は攻めるよりも陣地に籠もって守る方が有利な時代で、攻勢に出た方が必ず負けるという焦れったい状況が4年間続いている。その意味で、攻めに攻めた方が勝つという印象の第二次世界大戦とは戦況の動きが大きく違う。
軍事技術史で言えば、19世紀後半からエポックメーキングな戦いがいくつかある。私の印象で列挙してみると(本書にこう書いてるわけではない)
・アメリカ南北戦争
・普仏戦争
・ボーア戦争
・日露戦争
・第一次世界大戦
日本の幕末の動乱は軍事技術としてはアメリカ南北戦争にほぼ続いた時期に相当する。この南北戦争で、砲兵隊の集中利用と、射撃間隔が短い元込銃を利用した陣地で守る方が優勢であるという戦訓が確立した。ゲティスバーグでは騎兵隊を中心に攻めまくった南軍が北軍の陣地を破れずに敗退しているし、幕末の鳥羽伏見の戦いでも同様で、優勢な砲兵隊を中心とした薩摩軍陣地を、幕府フランス式歩兵隊は破ることができなかった。こうした変化は、軍事技術的には大砲や小銃の射程が伸びたことに対応する。
日露戦争における旅順要塞攻防戦として日本人にはよく知られた戦いも、完全に隠蔽されたコンクリート造りの陣地がいかに有利に戦えるかを示したもので、まともに突撃を繰り返した日本軍は大きな被害を受けた。
実は第一次世界大戦も同様で、日露戦争の旅順要塞攻防戦をさらに拡大したような陣地戦が西部戦線のあちこちで繰り広げられていて、攻める側は必ず大損害を受けた。騎兵が大砲や小銃の長射程化と元込による射撃速度の大幅な増大に勝てずに消滅していったのも、この第一次世界大戦である。目立つ色の軍服だと狙撃され、地面と似た軍服でカムフラージュするようになったもの第一次世界大戦からである(日本軍とロシア軍は日露戦争ですでにそうしていた)
一方で、初歩的な戦車とか毒ガス兵器、さらに飛行機という新しい武器が、不完全ながらも登場しており、第一次世界大戦の中ではその威力は不十分ながら、この後の発展を予想させる登場ではあった。
このように、第一次世界大戦は軍事史上もかなり重要な戦いで、特に砲兵隊の集中利用が重要という戦訓が多くの国に認識されたのだが、陸軍を派遣しなかった日本陸軍はこの戦訓を見逃し、日露戦争の時の戦訓を基にして陸軍を編成・運用したために第二次世界大戦では勝てなかった、とも言える。
このように、いろいろと考えさせられる内容であり、ヨーロッパに興味ある方はぜひ、読まれるといいと思います。
1914年から1918年まで戦われた第一次世界大戦は、日本がほとんど参加しなかった事もあって、日本ではその詳細はあまり知られていない。実際には日本は連合国の一員としてドイツ・オーストリア・トルコなどと戦っていて、中国山東半島の青島にあったドイツ領を占領したのを初め、海軍は艦隊を地中海に派遣しているし、陸軍にも欧州方面への出兵要請があった(日本政府は断った)くらいで、決して圏外だったわけではないのだが、国を挙げて戦った日清日露や満州事変・日中戦争・第二次世界大戦と比べると、日本人の意識からは遠い存在と言えるのが第一次世界大戦であろう。
ただ、ヨーロッパの国境線で見ると、第一次世界大戦の前後で大きく変わっていて、少なくとも国境線だけで言えば、第一次世界大戦後と第二次世界大戦後とでは大きな変化はない。つまり、ドイツ帝国・オーストリア帝国・ロシア帝国という3つの巨大な帝国が消滅し、その3帝国の周辺領土あたりに小国がいくつも独立していったのが第一次世界大戦後の世界であり、それが現在に及んでいるという意味では、ヨーロッパではむしろ第一次世界大戦の方が大きな戦いであったという印象なのだろうと思う。
本書は、そうした、今まで日本人には馴染みがなかった第一次世界大戦を新書でコンパクトに詳述した本であり、ヨーロッパについていろいろと考える機会のある人には、ぜひ一読をとオススメしたい本である。ヨーロッパ人は当然ながらどの人でも本書の内容くらいは熟知しており(日本で言えば幕末の歴史くらいの認知度?)、特に歴史を必要とする人でなくてもヨーロッパ人と交際する機会がある人なら、読んでいて損は無いと思う。
本書を読んで思うのは、第一次世界大戦というのは、塹壕に籠もって地味に戦った戦争という印象だが,実際には両軍しのぎを削って戦っている。戦線もそれなりに動いている。ただ、この時代は攻めるよりも陣地に籠もって守る方が有利な時代で、攻勢に出た方が必ず負けるという焦れったい状況が4年間続いている。その意味で、攻めに攻めた方が勝つという印象の第二次世界大戦とは戦況の動きが大きく違う。
軍事技術史で言えば、19世紀後半からエポックメーキングな戦いがいくつかある。私の印象で列挙してみると(本書にこう書いてるわけではない)
・アメリカ南北戦争
・普仏戦争
・ボーア戦争
・日露戦争
・第一次世界大戦
日本の幕末の動乱は軍事技術としてはアメリカ南北戦争にほぼ続いた時期に相当する。この南北戦争で、砲兵隊の集中利用と、射撃間隔が短い元込銃を利用した陣地で守る方が優勢であるという戦訓が確立した。ゲティスバーグでは騎兵隊を中心に攻めまくった南軍が北軍の陣地を破れずに敗退しているし、幕末の鳥羽伏見の戦いでも同様で、優勢な砲兵隊を中心とした薩摩軍陣地を、幕府フランス式歩兵隊は破ることができなかった。こうした変化は、軍事技術的には大砲や小銃の射程が伸びたことに対応する。
日露戦争における旅順要塞攻防戦として日本人にはよく知られた戦いも、完全に隠蔽されたコンクリート造りの陣地がいかに有利に戦えるかを示したもので、まともに突撃を繰り返した日本軍は大きな被害を受けた。
実は第一次世界大戦も同様で、日露戦争の旅順要塞攻防戦をさらに拡大したような陣地戦が西部戦線のあちこちで繰り広げられていて、攻める側は必ず大損害を受けた。騎兵が大砲や小銃の長射程化と元込による射撃速度の大幅な増大に勝てずに消滅していったのも、この第一次世界大戦である。目立つ色の軍服だと狙撃され、地面と似た軍服でカムフラージュするようになったもの第一次世界大戦からである(日本軍とロシア軍は日露戦争ですでにそうしていた)
一方で、初歩的な戦車とか毒ガス兵器、さらに飛行機という新しい武器が、不完全ながらも登場しており、第一次世界大戦の中ではその威力は不十分ながら、この後の発展を予想させる登場ではあった。
このように、第一次世界大戦は軍事史上もかなり重要な戦いで、特に砲兵隊の集中利用が重要という戦訓が多くの国に認識されたのだが、陸軍を派遣しなかった日本陸軍はこの戦訓を見逃し、日露戦争の時の戦訓を基にして陸軍を編成・運用したために第二次世界大戦では勝てなかった、とも言える。
このように、いろいろと考えさせられる内容であり、ヨーロッパに興味ある方はぜひ、読まれるといいと思います。
【書評】 日本語のミッシング・リンク 〜江戸と明治の連続・不連続〜 [書評]
日本語のミッシング・リンク 〜江戸と明治の連続・不連続〜
今野真二 新潮選書
高校の古文で習う源氏物語や徒然草のような昔の日本語や、公式な文書で用いられる漢文(古典中国語)は少しずつ形を換えながら江戸時代まで使われてきたが、この江戸期までの日本語と現代の日本語とは大きなギャップがある。語彙や言葉の書き方、使い方など、多くの面でかなり違ってきている。これを歴史的に遡ると、江戸時代までと大正以後の現代日本語とで大きな変化が見られる。それを明治期の急激な日本語の変化と見て詳細に論じたのが、本書である。私自身、このような疑問を持っていたので、本書はスッと頭に入れることができた。
江戸期の日本語は漢文、漢字仮名交じり文とがある。庶民が読み書きし、寺子屋で習うのは主に漢字仮名交じり文であるが、昌平黌や各藩の藩校などで教えるのは四書五経に代表される漢文の読み書きである。
明治初期になると四民平等ということで、藩校で漢文の教育を受けていない人たちが出版される読者となり、また、明治以降は藩校が順次廃止されていって文部省による学校に置き換わっていったので、正式な漢文の本が読める人がどんどん少なくなっていった。そのため、本を出版するにも漢文では多くの読者を期待できず、必然的に庶民や新時代の教育を受けた人たちでも読める漢字仮名交じり文で本を書く必要が出てきたという背景がある。
明治初期の段階では漢文で特に難しい語彙の左右両側にふりがなを振るという対応をしている。右側の振り仮名がその漢語の読み、左側の振り仮名がその漢語の意味を庶民の言葉でわかりやすく説明する役割である。しかい、そこまでして漢文に拘らず、最初から難しい漢語は日常的によく使う言葉で置き換えて漢字仮名交じり文で書けばよいとは誰しも思うことで、事実明治中期にはその方向に進んでいく。
一方で、英語などの欧米語との折り合いも明治になると必然的に必要になってくる。左から右に横書きする英語と、縦書きの日本語を、最初は横書きの英語と縦書きを横倒しにした日本語とが混じる形態でしのぐ。これは幕末期の幕府蕃書調所発行の「英吉利文典」などがそれである。それが明治初期の英和辞書にも受け継がれ、実際にはなかなか日本語も左から右の横書きに、という方向に進まなかったことがわかる。すでにその日本語に慣れた現代人としてはもどかしい感じだが、言葉が変わっていくというのは、そうしたゆっくりとした変化なのであろう。
最終的には明治末期の二葉亭四迷、森鴎外、夏目漱石らの文豪によって、漢字仮名交じり文が現代日本語と変わらないくらいに完成されていくところで本書は終わっている。
現代日本語のルーツはどこか、異なる文明(西洋文明)を取り入れるとはどういうことか、納得できる本であり、この種の問題に興味ある方にはご一読を勧める。本書からは異なる文明を取り入れていった明治期の人々の苦闘が伝わってきます。ネット文化を取り入れないといけない現代も言葉の使い方用い方としては、ひょっとして同じ苦闘の時期なのかもしれません。
強いて、難を言えば、折角「英吉利文典」など初期の英語辞書での英語と日本語を同居させる苦労を説明するのなら、その前に同じ苦労をしていた蘭学の世界、特に江戸末期の蘭学に大きな影響を与えたズーフハルマ(ハルマ蘭仏辞典を元に長崎のオランダ商館長ズーフが編集した蘭和辞典)にも触れるべきだったと思う。ちなみに、全て手書きでしか発行されていないが、ズーフハルマは蘭語が横書き、日本語は縦書き横倒しという英吉利文典と同じである。
今野真二 新潮選書
高校の古文で習う源氏物語や徒然草のような昔の日本語や、公式な文書で用いられる漢文(古典中国語)は少しずつ形を換えながら江戸時代まで使われてきたが、この江戸期までの日本語と現代の日本語とは大きなギャップがある。語彙や言葉の書き方、使い方など、多くの面でかなり違ってきている。これを歴史的に遡ると、江戸時代までと大正以後の現代日本語とで大きな変化が見られる。それを明治期の急激な日本語の変化と見て詳細に論じたのが、本書である。私自身、このような疑問を持っていたので、本書はスッと頭に入れることができた。
江戸期の日本語は漢文、漢字仮名交じり文とがある。庶民が読み書きし、寺子屋で習うのは主に漢字仮名交じり文であるが、昌平黌や各藩の藩校などで教えるのは四書五経に代表される漢文の読み書きである。
明治初期になると四民平等ということで、藩校で漢文の教育を受けていない人たちが出版される読者となり、また、明治以降は藩校が順次廃止されていって文部省による学校に置き換わっていったので、正式な漢文の本が読める人がどんどん少なくなっていった。そのため、本を出版するにも漢文では多くの読者を期待できず、必然的に庶民や新時代の教育を受けた人たちでも読める漢字仮名交じり文で本を書く必要が出てきたという背景がある。
明治初期の段階では漢文で特に難しい語彙の左右両側にふりがなを振るという対応をしている。右側の振り仮名がその漢語の読み、左側の振り仮名がその漢語の意味を庶民の言葉でわかりやすく説明する役割である。しかい、そこまでして漢文に拘らず、最初から難しい漢語は日常的によく使う言葉で置き換えて漢字仮名交じり文で書けばよいとは誰しも思うことで、事実明治中期にはその方向に進んでいく。
一方で、英語などの欧米語との折り合いも明治になると必然的に必要になってくる。左から右に横書きする英語と、縦書きの日本語を、最初は横書きの英語と縦書きを横倒しにした日本語とが混じる形態でしのぐ。これは幕末期の幕府蕃書調所発行の「英吉利文典」などがそれである。それが明治初期の英和辞書にも受け継がれ、実際にはなかなか日本語も左から右の横書きに、という方向に進まなかったことがわかる。すでにその日本語に慣れた現代人としてはもどかしい感じだが、言葉が変わっていくというのは、そうしたゆっくりとした変化なのであろう。
最終的には明治末期の二葉亭四迷、森鴎外、夏目漱石らの文豪によって、漢字仮名交じり文が現代日本語と変わらないくらいに完成されていくところで本書は終わっている。
現代日本語のルーツはどこか、異なる文明(西洋文明)を取り入れるとはどういうことか、納得できる本であり、この種の問題に興味ある方にはご一読を勧める。本書からは異なる文明を取り入れていった明治期の人々の苦闘が伝わってきます。ネット文化を取り入れないといけない現代も言葉の使い方用い方としては、ひょっとして同じ苦闘の時期なのかもしれません。
強いて、難を言えば、折角「英吉利文典」など初期の英語辞書での英語と日本語を同居させる苦労を説明するのなら、その前に同じ苦労をしていた蘭学の世界、特に江戸末期の蘭学に大きな影響を与えたズーフハルマ(ハルマ蘭仏辞典を元に長崎のオランダ商館長ズーフが編集した蘭和辞典)にも触れるべきだったと思う。ちなみに、全て手書きでしか発行されていないが、ズーフハルマは蘭語が横書き、日本語は縦書き横倒しという英吉利文典と同じである。
日本語のミッシング・リンク: 江戸と明治の連続・不連続 (新潮選書)
- 作者: 今野 真二
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/03/28
- メディア: 単行本
滝沢弘康 『秀吉家臣団の内幕 〜天下人をめぐる群像劇〜』 [書評]
また、大河ドラマ『軍師官兵衛』に関連した新書の紹介になります。
この本は、黒田官兵衛だけの焦点を絞った本ではなく、秀吉が信長に仕えてから、豊臣家が滅亡するまでの秀吉家臣団の通史、といった本です。
秀吉が1次資料の文献に初登場するのは永禄8年で、信長が美濃の坪内利定に宛てた知行宛行状の添え状に「木下藤吉郎秀吉」の名があります。なので、永禄8年以前の秀吉について、1次文献からはまったく消息不明、ということになります。もちろん、この本も、主にそれ以降の秀吉について、その家臣団を追ったもので、信長家臣時代の秀吉の家臣団は大きく分けて次の3つの時期に分けて説明されてます
①小谷城攻めまで(尾張→美濃→京都奉行・小谷城攻め)
②近江長浜時代
③中国攻め時代
その後は、さらに
④賤ヶ岳合戦前後
⑤天下掌握の時期
⑥家臣団内の派閥抗争期(朝鮮出兵など)
⑦崩壊の時期
と区分けされます。
黒田官兵衛については、③の時期で主役として詳しく書かれ、その後も前編を通じて、この時に黒田官兵衛は、という形で書かれてます。つまり、主役として、というよりは、黒田官兵衛が豊臣家臣団の中でどう位置づけされていたかがわかる本で、彼が豊臣家という組織の中でどういう扱いだったかがわかります。
この本にも、あるいはいろんな本にも書かれてますが、秀吉が後北条氏を征伐して天下を統一した後、黒田官兵衛の扱いが軽くなっていくのは事実で、例えばほぼ同じ仕事を一緒にした蜂須賀正勝(小六)が阿波一国を拝領したのに官兵衛はわずか8万石と差があります。もっとも、正勝は官兵衛をはばかって阿波は息子に譲ったとこの本では書かれています。
これは、秀吉創業時からの家臣(というか、多分、最初はほぼ同格の同輩)だった蜂須賀正勝と、中国攻めの頃から従った、いわば外様の黒田官兵衛との扱いの違いと言えましょう。どんなに仕事を頑張っても、創業時からの社員と、合併された会社の社員とでは扱いが違う、という感じでしょうか。その意味で、黒田官兵衛は報われないのに頑張りすぎてしまった感じで、その反動が秀吉の晩年に家康に急速に近づいていった原因とこの本では分析してます。
黒田官兵衛以外にも、例えば秀吉の最初の頃に武功派の部将神子田正治が、途中でいなくなってしまったのは、秀吉の気まぐれによる失脚だとか、歴史ファンなら気にする”重箱の隅ネタ”がいろいろあり、大河ドラマに合わせて一読すると、ドラマが面白く読める一冊かなと思います。
この本は、黒田官兵衛だけの焦点を絞った本ではなく、秀吉が信長に仕えてから、豊臣家が滅亡するまでの秀吉家臣団の通史、といった本です。
秀吉が1次資料の文献に初登場するのは永禄8年で、信長が美濃の坪内利定に宛てた知行宛行状の添え状に「木下藤吉郎秀吉」の名があります。なので、永禄8年以前の秀吉について、1次文献からはまったく消息不明、ということになります。もちろん、この本も、主にそれ以降の秀吉について、その家臣団を追ったもので、信長家臣時代の秀吉の家臣団は大きく分けて次の3つの時期に分けて説明されてます
①小谷城攻めまで(尾張→美濃→京都奉行・小谷城攻め)
②近江長浜時代
③中国攻め時代
その後は、さらに
④賤ヶ岳合戦前後
⑤天下掌握の時期
⑥家臣団内の派閥抗争期(朝鮮出兵など)
⑦崩壊の時期
と区分けされます。
黒田官兵衛については、③の時期で主役として詳しく書かれ、その後も前編を通じて、この時に黒田官兵衛は、という形で書かれてます。つまり、主役として、というよりは、黒田官兵衛が豊臣家臣団の中でどう位置づけされていたかがわかる本で、彼が豊臣家という組織の中でどういう扱いだったかがわかります。
この本にも、あるいはいろんな本にも書かれてますが、秀吉が後北条氏を征伐して天下を統一した後、黒田官兵衛の扱いが軽くなっていくのは事実で、例えばほぼ同じ仕事を一緒にした蜂須賀正勝(小六)が阿波一国を拝領したのに官兵衛はわずか8万石と差があります。もっとも、正勝は官兵衛をはばかって阿波は息子に譲ったとこの本では書かれています。
これは、秀吉創業時からの家臣(というか、多分、最初はほぼ同格の同輩)だった蜂須賀正勝と、中国攻めの頃から従った、いわば外様の黒田官兵衛との扱いの違いと言えましょう。どんなに仕事を頑張っても、創業時からの社員と、合併された会社の社員とでは扱いが違う、という感じでしょうか。その意味で、黒田官兵衛は報われないのに頑張りすぎてしまった感じで、その反動が秀吉の晩年に家康に急速に近づいていった原因とこの本では分析してます。
黒田官兵衛以外にも、例えば秀吉の最初の頃に武功派の部将神子田正治が、途中でいなくなってしまったのは、秀吉の気まぐれによる失脚だとか、歴史ファンなら気にする”重箱の隅ネタ”がいろいろあり、大河ドラマに合わせて一読すると、ドラマが面白く読める一冊かなと思います。
秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (ソフトバンク新書)
- 作者: 滝沢 弘康
- 出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ
- 発売日: 2013/09/18
- メディア: 新書
タグ:軍師官兵衛
戦国の軍隊がわかる好著 [書評]
西股総生『戦国の軍隊----現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』
この本は戦国時代の軍隊について書かれた本である。はっきり言って、この種の本は専門書も含めてほとんど無かったのではないか。戦国時代という歴史の研究と軍隊という軍事の研究の狭間にある分野で、従来は戦国史の歴史研究家が、その論説(や著書)の中で、かなり想像で各大名の軍隊を想像し、それを基に歴史を研究していた感がある。
しかし、本書を一読すると、それまで抱いていた戦国の軍隊のイメージが一新されることは間違いない。大河ドラマファンならずとも、戦国時代に興味がある人にはぜひ一読して欲しい名著と思う。
戦国時代の戦闘で、まず普通に考えるのはこんな場面であろう。
「鉄砲隊! 放て!」
「弓隊、前へ。射かけよ!」
「槍隊! 前へ! 押し出せ!」
「騎馬隊、用意はいいか!」
ところが、歴史研究家からは、当時は封建制であり、土地の領主の各小領主がそれぞれ領土から軍勢を引き連れてくるので、各領主ごとにばらばらの単位となっているから、上のような号令が全軍で行われることはありえない、と言う。
例えば小領主ならせいぜい50人くらいの部隊を率い、その中では鉄砲隊と言っても鉄砲は2挺くらい、弓も10人いなくて、槍隊が30人くらい。馬に乗っているのは上士なので、上士(指揮官)だけで騎馬隊を編成するなどとんでもない。馬に乗っている指揮官はそれぞれ自分の部隊の槍隊、弓隊に声をかけて指揮している・・・・。槍隊の突撃と言っても、それぞれの小領主が自分の部隊に声をかけているだけなので、10人、20人程度の小規模な槍隊がそれぞれ個別に突撃している・・・・
軍事について常識のある人なら、そんなバカなと思える状況だが、今まで歴史家は封建制の小領主の集まりが封建時代である戦国時代の軍隊と固く信じていたので、上のようなイメージで戦いを捉えていて、数千人の槍隊が穂先を揃えて前進など、ありえないと主張していた。例えば古代ローマの軍隊など、紀元前だが、すでに数万規模で全軍統一した兵科別編成になっていたのに、その2000年も後の時代に、兵科別編成がないなど、そんなバカな、と言いたくなる。そういう疑問に対し、歴史研究者はお前は素人だから封建時代の基礎がわかってない、とせせら笑う。
この本は、そうした素朴な疑問を真っ正面から検討し、戦国時代当時の1次文献を中心に、戦国の軍隊の実情に迫った本なのである。
この本が基礎とするのは、以下の3つの文献である。
・『渡辺水庵覚書』 秀吉の小田原攻めの際に山中城攻めに参加した、
中村一氏隊の渡辺勘兵衛という中級程度の家臣による覚書
・『北条氏所領役帳』 北条氏康の時代の北条氏の所領の表
・『北条家着到定書』 北条氏政時代の北条氏の軍役の表
『渡辺水庵覚書』によれば、中規模の家臣で、主君一氏にも直言できる身分の渡辺勘兵衛が、覚書を読む限り、自分の部隊を率いておらず、仲間の(同程度の身分の)武者と共に、ほぼ単独行動で山中城攻めをしていると思われる。これからそれぞれの小領主が率いてきた部隊は、領主とは切り離されて編成されていたことが示唆される。
次に、『北条氏所領役帳』によると、後北条氏の各城に詰めていた部隊を構成しているメンバーは、それぞれの城の周囲に所領を持つ土豪などではなく、例えば北関東の城に、伊豆半島に所領を持つ武士が詰めているという具合で、どうやら北条氏中央の人事で、配属されているだけに見えること。これでは各武士が自分の所領から兵を募って部隊を編成しているとは思えないことになる。
これを一歩進め、各武士が連れてきている兵力は、いわば足軽中心で、金銭で雇用した兵士という考察になる。足軽とは陣笠を被って槍を持つ歩兵というのは後世の偏見で、当時の用語でいう足軽は、今日の言葉で言えば非正規雇用、それに対して代々の家臣は正規雇用社員に相当する。
最後に、『北条家着到定書』である。これは戦いで動員されるときに家臣にそれぞれ要求されていた軍勢の内容である。あんたは100人くらいを、とかいうドンブリ勘定ではなく、かなり細かい。例えば天正5年の後北条氏の岩付衆(岩付城に入っている軍団)の場合は、全部で1580人だが、以下のように定められている。
・小旗 120本 奉行3人
・槍 600 奉行5人
・鉄砲 50余 奉行2人
・弓 40余 奉行2人
・歩者250余 奉行3人
・馬上 500余騎 奉行6人
・歩走 20 奉行1人
これから、まず馬上500余騎で全部で1580人なら、馬に乗る武士はとてもではないが指揮官だけではない。これだけで、ある種騎兵隊になるであろう。また、それとほぼ同規模の槍隊が定められているのもわかる。
このうち、常時訓練が必要なのは、鉄砲、弓、そして馬上の一部だろう。なので、他は非正規雇用、つまり金銭で雇って戦場に連れてきていたというのが、この本での重要な主張である。この割合等は、武田氏、上杉氏でもあまり変わりない。つまり、この1580人の半分以上はその場その場で金銭で雇われた非正規雇用の兵である。そして、着到定書で求められているのは、日頃この人数を抱えていることではなく、戦場へ行くときはこれだけ連れて来い、つまり、非正規雇用の兵を雇ってこの人数にして連れて来い、ということなのだ。
そして実際の戦場では、この着到定書の通りに連れてきた軍勢は、指揮官とは切り離されて、それぞれ馬上の500騎は騎馬部隊に、槍の600人は槍隊に、とそれぞれ編成され、別に決められた騎馬部隊の指揮官、槍隊の指揮官の指揮下に入る、ということなのだ。つまり封建制とはいいつつも、すでにその土地から徴募して農兵を使ってるわけではなく、非常勤雇用とはいえ、戦場を渡り歩くような者たちで戦国の軍勢は構成されていた、ということだ。
この本では触れてないが、この主張を読んで思い出すのが、関ヶ原の時の徳川家康直轄の3万5千余の軍勢である。この軍勢の中身は小身の武士ばかりで、大身の本多平八郎などは秀忠の軍勢にいて信州の真田攻めでひっかかっており、関ヶ原に来ていない。小身ばかりの軍勢がそれぞれの小領主ごとに戦っていたら戦いにならないと思うのだが、実際の徳川兵団は関ヶ原で立派に戦っている。この事実も、この本の言う、戦国の軍隊は兵科別編成になっていたという主張を裏付けるこのと思う。
戦国の軍隊について、新しい見方を教えられ、納得出来る本で、ぜひ一読をお勧めしたい。
この本は戦国時代の軍隊について書かれた本である。はっきり言って、この種の本は専門書も含めてほとんど無かったのではないか。戦国時代という歴史の研究と軍隊という軍事の研究の狭間にある分野で、従来は戦国史の歴史研究家が、その論説(や著書)の中で、かなり想像で各大名の軍隊を想像し、それを基に歴史を研究していた感がある。
しかし、本書を一読すると、それまで抱いていた戦国の軍隊のイメージが一新されることは間違いない。大河ドラマファンならずとも、戦国時代に興味がある人にはぜひ一読して欲しい名著と思う。
戦国時代の戦闘で、まず普通に考えるのはこんな場面であろう。
「鉄砲隊! 放て!」
「弓隊、前へ。射かけよ!」
「槍隊! 前へ! 押し出せ!」
「騎馬隊、用意はいいか!」
ところが、歴史研究家からは、当時は封建制であり、土地の領主の各小領主がそれぞれ領土から軍勢を引き連れてくるので、各領主ごとにばらばらの単位となっているから、上のような号令が全軍で行われることはありえない、と言う。
例えば小領主ならせいぜい50人くらいの部隊を率い、その中では鉄砲隊と言っても鉄砲は2挺くらい、弓も10人いなくて、槍隊が30人くらい。馬に乗っているのは上士なので、上士(指揮官)だけで騎馬隊を編成するなどとんでもない。馬に乗っている指揮官はそれぞれ自分の部隊の槍隊、弓隊に声をかけて指揮している・・・・。槍隊の突撃と言っても、それぞれの小領主が自分の部隊に声をかけているだけなので、10人、20人程度の小規模な槍隊がそれぞれ個別に突撃している・・・・
軍事について常識のある人なら、そんなバカなと思える状況だが、今まで歴史家は封建制の小領主の集まりが封建時代である戦国時代の軍隊と固く信じていたので、上のようなイメージで戦いを捉えていて、数千人の槍隊が穂先を揃えて前進など、ありえないと主張していた。例えば古代ローマの軍隊など、紀元前だが、すでに数万規模で全軍統一した兵科別編成になっていたのに、その2000年も後の時代に、兵科別編成がないなど、そんなバカな、と言いたくなる。そういう疑問に対し、歴史研究者はお前は素人だから封建時代の基礎がわかってない、とせせら笑う。
この本は、そうした素朴な疑問を真っ正面から検討し、戦国時代当時の1次文献を中心に、戦国の軍隊の実情に迫った本なのである。
この本が基礎とするのは、以下の3つの文献である。
・『渡辺水庵覚書』 秀吉の小田原攻めの際に山中城攻めに参加した、
中村一氏隊の渡辺勘兵衛という中級程度の家臣による覚書
・『北条氏所領役帳』 北条氏康の時代の北条氏の所領の表
・『北条家着到定書』 北条氏政時代の北条氏の軍役の表
『渡辺水庵覚書』によれば、中規模の家臣で、主君一氏にも直言できる身分の渡辺勘兵衛が、覚書を読む限り、自分の部隊を率いておらず、仲間の(同程度の身分の)武者と共に、ほぼ単独行動で山中城攻めをしていると思われる。これからそれぞれの小領主が率いてきた部隊は、領主とは切り離されて編成されていたことが示唆される。
次に、『北条氏所領役帳』によると、後北条氏の各城に詰めていた部隊を構成しているメンバーは、それぞれの城の周囲に所領を持つ土豪などではなく、例えば北関東の城に、伊豆半島に所領を持つ武士が詰めているという具合で、どうやら北条氏中央の人事で、配属されているだけに見えること。これでは各武士が自分の所領から兵を募って部隊を編成しているとは思えないことになる。
これを一歩進め、各武士が連れてきている兵力は、いわば足軽中心で、金銭で雇用した兵士という考察になる。足軽とは陣笠を被って槍を持つ歩兵というのは後世の偏見で、当時の用語でいう足軽は、今日の言葉で言えば非正規雇用、それに対して代々の家臣は正規雇用社員に相当する。
最後に、『北条家着到定書』である。これは戦いで動員されるときに家臣にそれぞれ要求されていた軍勢の内容である。あんたは100人くらいを、とかいうドンブリ勘定ではなく、かなり細かい。例えば天正5年の後北条氏の岩付衆(岩付城に入っている軍団)の場合は、全部で1580人だが、以下のように定められている。
・小旗 120本 奉行3人
・槍 600 奉行5人
・鉄砲 50余 奉行2人
・弓 40余 奉行2人
・歩者250余 奉行3人
・馬上 500余騎 奉行6人
・歩走 20 奉行1人
これから、まず馬上500余騎で全部で1580人なら、馬に乗る武士はとてもではないが指揮官だけではない。これだけで、ある種騎兵隊になるであろう。また、それとほぼ同規模の槍隊が定められているのもわかる。
このうち、常時訓練が必要なのは、鉄砲、弓、そして馬上の一部だろう。なので、他は非正規雇用、つまり金銭で雇って戦場に連れてきていたというのが、この本での重要な主張である。この割合等は、武田氏、上杉氏でもあまり変わりない。つまり、この1580人の半分以上はその場その場で金銭で雇われた非正規雇用の兵である。そして、着到定書で求められているのは、日頃この人数を抱えていることではなく、戦場へ行くときはこれだけ連れて来い、つまり、非正規雇用の兵を雇ってこの人数にして連れて来い、ということなのだ。
そして実際の戦場では、この着到定書の通りに連れてきた軍勢は、指揮官とは切り離されて、それぞれ馬上の500騎は騎馬部隊に、槍の600人は槍隊に、とそれぞれ編成され、別に決められた騎馬部隊の指揮官、槍隊の指揮官の指揮下に入る、ということなのだ。つまり封建制とはいいつつも、すでにその土地から徴募して農兵を使ってるわけではなく、非常勤雇用とはいえ、戦場を渡り歩くような者たちで戦国の軍勢は構成されていた、ということだ。
この本では触れてないが、この主張を読んで思い出すのが、関ヶ原の時の徳川家康直轄の3万5千余の軍勢である。この軍勢の中身は小身の武士ばかりで、大身の本多平八郎などは秀忠の軍勢にいて信州の真田攻めでひっかかっており、関ヶ原に来ていない。小身ばかりの軍勢がそれぞれの小領主ごとに戦っていたら戦いにならないと思うのだが、実際の徳川兵団は関ヶ原で立派に戦っている。この事実も、この本の言う、戦国の軍隊は兵科別編成になっていたという主張を裏付けるこのと思う。
戦国の軍隊について、新しい見方を教えられ、納得出来る本で、ぜひ一読をお勧めしたい。
黒田官兵衛についての新書4冊を比較 [書評]
NHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』が新年の1月5日から始まりますね。
戦国時代物と言えばファンも多いし、自分なりに調べている人も多いかと思いますが、黒田官兵衛というどちらかというと脇役にスポットを当てると、また歴史の流れの見え方が違うと思うので、そういう意味で、単純に信長・秀吉・家康の政治劇ストーリーとしない、ひと味違う大河ドラマを期待したいものです。
さて、この大河ドラマを当て込んだ企画だとは思いますが、黒田官兵衛を扱った本がいくつか出版されました。いずれも新書なので入手しやすいと思いますが、本稿ではそのうち入手しやすい4種について、比較書評をしてみます。
本稿で取り上げるのは、以下の4つです。
ちなみに、小和田本の小和田哲男氏は大河ドラマ『軍師官兵衛』の歴史監修の人です。では、この本が一番お勧めかというと、実はそうでもないんです。私の独断と偏見によるお勧めは、本稿の一番下に書きました。
【小和田本】小和田哲男著「黒田官兵衛」平凡社新書
【渡邊本】渡邊大門著「黒田官兵衛」講談社現代新書
【諏訪本】諏訪勝則著「黒田官兵衛」中公新書
【安藤本】安藤慶一郎著「不屈の人黒田官兵衛」メディアファクトリー新書
以下、【…】で書いた書き方でこの4つを区別していきます。
いずれの本も黒田家の発祥から始まって、黒田官兵衛の生涯を描いていますが、実は書き方にかなり違いがあります。全部について違いを並べていくと、それだけで1冊の新書本になっちゃいそうですから、ここではいくつかに絞って違いを紹介してみます。
・黒田家の起源について
黒田官兵衛は、その前半の生涯は小寺官兵衛ですが、小寺というのは姫路の小領主時代に使えていた小寺家の名跡で、秀吉によって播州が制圧されて領地をもらった時、小寺家に代わって播磨西部を治めることになったので、その時点で小寺の名跡を捨て、もとの黒田家に戻ってます。なので、起源を調べるべきは黒田家、ということになります。
黒田家の起源は、実はいくつか説があります。近江起源説・備前福岡起源説・姫路近辺起源説。どれが正しいかはさておき、ここの扱いがこの4つの本で全然違います。
まず、安藤本は福岡藩黒田家がまとめた「黒田家譜」の記述をそのまま採用し、あっさりと近江起源説を事実として紹介し、そのまま先に進んでます。小和田本はさすがに異説として「播磨鑑」による播磨国多可郡黒田庄という説を紹介しているものの、特に議論無く黒田家譜どおりの近江起源説としています。
一方、渡邊本と諏訪本はここで多くのページを費やして多くの資料を駆使し、各起源説を比較しています。近江の佐々木源氏を起源とし、黒田家譜にある、室町十代将軍足利義植の怒りに触れて佐々木源氏黒田氏の高政が備前に移ってきたという”公式見解”は両者とも否定している。つまり、この点でまず安藤本・小和田本と違ってるわけである。黒田家譜は福岡藩が公式にまとめて江戸幕府に提出した資料ではあるけれど、戦国大名のほとんどは出自が怪しいわけで、しかしそのままでは朝廷の官位などはもらえないため、なるべく名家と繋がっているという系譜を偽造していた。なので、この例に漏れず、黒田家譜も信用出来ない、という立場です。この点、小和田本がここで留まっているのは、非常に不満です。
さらに、渡邊本、諏訪本共に、備前福岡起源説も根拠が弱いとしている。諏訪本は追究がここで止まっていて、福岡藩黒田氏の起源はわからない
とし、資料的にはっきりしている官兵衛の祖父黒田重隆の話に移っている。渡邊本はさらに播磨国黒田庄を起源する根拠として「荘厳寺本黒田家略系図」を詳細に紹介し、しかし、各代の人名に1次資料による裏付けが無いとして原則的には退けている。(諏訪本もこの資料には言及しており、やはり1次資料との対応が無いと批判している)これによって、播磨の赤松氏の流れを汲むという説も否定している。
渡邊本では、さらに他の3つの本にない、黒田家重臣(黒田八虎・二十四騎)の起源を分析していて、そのほとんどが姫路を中心とした土豪であることから、黒田家自体も姫路を中心とする土豪だったのではないかと結論している。この点で渡邊本は非常に納得できる説明になっていると言える。
・中国大返し
天正十年6月2日早朝、織田信長が本能寺で明智光秀の軍勢に襲われ、非業の死を遂げます。本能寺の変です。この直後、備中高松で毛利勢と対戦していた秀吉の軍は急遽毛利と講和を結び、短時間で中国路を東へとって返し、摂津から山崎へと軍を進めて明智光秀の軍勢を破ります。この時の、短時間で備中高松(岡山市のやや北西)から姫路に辿り着くのを中国大返しと呼び、秀吉の伝記である太閤記では一番の見せ場と言える有名な故事です。
この中国大返し、基本的な資料は秀吉の右筆である大村由己が書いた天正記の中の一巻「惟任退治記」に依拠する。「惟任退治記」は光秀を破った秀吉がその直後に書かせたもので、いわば政府の公式発表のようなもの。今で言えば東日本大震災直後の福島原発の問題で政府発表や東電発表の公式資料をあまり信用しないのと同じで、この「惟任退治記」をそおまま信用するわけにはいかない。しかし、その後の小瀬甫庵「太閤記」や黒田家譜もこれに依拠しているわけなので、今も通説としてはこの「惟任退治記」での中国大返しがそのまま信じられている。
安藤本、小和田本、諏訪本もこの「惟任退治記」の記述をそのまま書いており、それによる中国大返しのスケジュールは以下のようになる。
6月2日 本能寺の変
6月6日午後 備中高松発
6月7日朝 備前沼城発
6月7日夜 姫路着
この行程だと6月7日の半日で沼城から姫路まで直線で55km、道のりで約70kmを徒歩で移動したことになり、その前の高松→沼城の22kmを前日歩いていることから考えるとかなり無理な行軍である。小和田本は地図でこの移動を示しているにもかかわらず、この行軍が無理かどうかの吟味はしていない。
それに対し、渡邊本は「惟任退治記」以前の1次資料から、次のように中国大返しの行程を記している。
6月2日 本能寺の変
6月4日 高松→野殿(岡山市)
6月5日 野殿→沼城→
6月6日 →姫路
こちらでも強行軍だが、「惟任退治記」よりは無理ない。この中国大返し自体に吟味の必要があると指摘しているだけ、渡邊本が評価できる。
・関ヶ原戦後処理
天下分け目の関ヶ原が行われていた時、長男の長政は関ヶ原の戦場にいたが、官兵衛自身は九州の領地で留守をしていた。そこで挙兵して、西軍に属する大名の領地を次々に占領していった官兵衛が、戦後処理が終わって帰って来た長政と会話した話が有名である。
よく言われるのが常山紀談にある会話で、家康に手を取られて感謝されたと語る長政に対し、家康公が手に取った手は右か左かと問う官兵衛。長政が右手ですと言うと、その時お前の左手は何をしていた、と鋭く言う官兵衛。安藤本、大和田本、諏訪本では事実とはしないものの、この話には触れているが、渡邊本はまったく触れていない。
逆に、関ヶ原戦後処理で、黒田家自身が福岡に52万石を拝領したことの他、渡邊本のみが官兵衛・長政が毛利家の関ヶ原戦後処理に関与したことを記述している。
以上のように、それぞれの本ごとにいろいろと書く内容が違う。
私の独断と偏見で評価すると、以下のようになります。
まず、あまり歴史の知識が無い人が、ひととおり黒田官兵衛とその周辺を知るには、安藤本がいいと思います。余計に詳しくなく、いわゆる世に知れ渡ってる通説に沿った解説なので、まずは読んでおいた方がいいかも。大河ドラマもこの本にあるような通説どおりの歴史を踏まえた上で、独自の脚色や部分的に最近の歴史学の進歩を取り入れた、という形になっていると思います。
歴史、特に戦国時代に詳しくて、いろんな説を比較吟味して自分なりに考えたい人には、お勧めは渡邊本です。もう1冊読むなら、次は諏訪本でしょうね。いずれも1次資料から通説を批判し、おそらく実際はこうだろうという説明を納得がいくようにしてくれてます。
小和田本はねぇ・・・・、実は一番オススメではないです。これがあの大河ドラマの時代考証担当の人の著作かというくらい、ひどいです。ひどいというのは内容が違うとか、読んでいて面白くないという意味では無く、黒田官兵衛の本のはずなのに、他の3冊に比べ、黒田官兵衛の記述が非常に少ないんです。単なる信長、秀吉、家康の、よくある戦国時代の解説になっちゃってる。また、関ヶ原に呼応して九州で挙兵した官兵衛の動きを渡邊本、諏訪本は家康と事前に打ち合わせて出兵の許可を取っていると書いているのに対し、小和田本ではこの重要な部分を割愛して、単に官兵衛が天下を狙う野心で挙兵したように書いてある。これは人口に膾炙している通説では面白くそう書かれてますが、事実ではない。このあたりの書き方も、ちょっと小和田先生、大丈夫かなぁという感じです。全体としてツメが甘く、オススメできないです。
他にも、黒田官兵衛に関する本はいろいろと出始めていて、私もまだ全部は読んでませんが、もし大河ドラマを視てもっと調べたくなったら、上記に私が挙げた点なども踏まえつつ、たくさん読まれてみてはいかがでしょう。
戦国時代物と言えばファンも多いし、自分なりに調べている人も多いかと思いますが、黒田官兵衛というどちらかというと脇役にスポットを当てると、また歴史の流れの見え方が違うと思うので、そういう意味で、単純に信長・秀吉・家康の政治劇ストーリーとしない、ひと味違う大河ドラマを期待したいものです。
さて、この大河ドラマを当て込んだ企画だとは思いますが、黒田官兵衛を扱った本がいくつか出版されました。いずれも新書なので入手しやすいと思いますが、本稿ではそのうち入手しやすい4種について、比較書評をしてみます。
本稿で取り上げるのは、以下の4つです。
ちなみに、小和田本の小和田哲男氏は大河ドラマ『軍師官兵衛』の歴史監修の人です。では、この本が一番お勧めかというと、実はそうでもないんです。私の独断と偏見によるお勧めは、本稿の一番下に書きました。
【小和田本】小和田哲男著「黒田官兵衛」平凡社新書
【渡邊本】渡邊大門著「黒田官兵衛」講談社現代新書
【諏訪本】諏訪勝則著「黒田官兵衛」中公新書
【安藤本】安藤慶一郎著「不屈の人黒田官兵衛」メディアファクトリー新書
以下、【…】で書いた書き方でこの4つを区別していきます。
いずれの本も黒田家の発祥から始まって、黒田官兵衛の生涯を描いていますが、実は書き方にかなり違いがあります。全部について違いを並べていくと、それだけで1冊の新書本になっちゃいそうですから、ここではいくつかに絞って違いを紹介してみます。
・黒田家の起源について
黒田官兵衛は、その前半の生涯は小寺官兵衛ですが、小寺というのは姫路の小領主時代に使えていた小寺家の名跡で、秀吉によって播州が制圧されて領地をもらった時、小寺家に代わって播磨西部を治めることになったので、その時点で小寺の名跡を捨て、もとの黒田家に戻ってます。なので、起源を調べるべきは黒田家、ということになります。
黒田家の起源は、実はいくつか説があります。近江起源説・備前福岡起源説・姫路近辺起源説。どれが正しいかはさておき、ここの扱いがこの4つの本で全然違います。
まず、安藤本は福岡藩黒田家がまとめた「黒田家譜」の記述をそのまま採用し、あっさりと近江起源説を事実として紹介し、そのまま先に進んでます。小和田本はさすがに異説として「播磨鑑」による播磨国多可郡黒田庄という説を紹介しているものの、特に議論無く黒田家譜どおりの近江起源説としています。
一方、渡邊本と諏訪本はここで多くのページを費やして多くの資料を駆使し、各起源説を比較しています。近江の佐々木源氏を起源とし、黒田家譜にある、室町十代将軍足利義植の怒りに触れて佐々木源氏黒田氏の高政が備前に移ってきたという”公式見解”は両者とも否定している。つまり、この点でまず安藤本・小和田本と違ってるわけである。黒田家譜は福岡藩が公式にまとめて江戸幕府に提出した資料ではあるけれど、戦国大名のほとんどは出自が怪しいわけで、しかしそのままでは朝廷の官位などはもらえないため、なるべく名家と繋がっているという系譜を偽造していた。なので、この例に漏れず、黒田家譜も信用出来ない、という立場です。この点、小和田本がここで留まっているのは、非常に不満です。
さらに、渡邊本、諏訪本共に、備前福岡起源説も根拠が弱いとしている。諏訪本は追究がここで止まっていて、福岡藩黒田氏の起源はわからない
とし、資料的にはっきりしている官兵衛の祖父黒田重隆の話に移っている。渡邊本はさらに播磨国黒田庄を起源する根拠として「荘厳寺本黒田家略系図」を詳細に紹介し、しかし、各代の人名に1次資料による裏付けが無いとして原則的には退けている。(諏訪本もこの資料には言及しており、やはり1次資料との対応が無いと批判している)これによって、播磨の赤松氏の流れを汲むという説も否定している。
渡邊本では、さらに他の3つの本にない、黒田家重臣(黒田八虎・二十四騎)の起源を分析していて、そのほとんどが姫路を中心とした土豪であることから、黒田家自体も姫路を中心とする土豪だったのではないかと結論している。この点で渡邊本は非常に納得できる説明になっていると言える。
・中国大返し
天正十年6月2日早朝、織田信長が本能寺で明智光秀の軍勢に襲われ、非業の死を遂げます。本能寺の変です。この直後、備中高松で毛利勢と対戦していた秀吉の軍は急遽毛利と講和を結び、短時間で中国路を東へとって返し、摂津から山崎へと軍を進めて明智光秀の軍勢を破ります。この時の、短時間で備中高松(岡山市のやや北西)から姫路に辿り着くのを中国大返しと呼び、秀吉の伝記である太閤記では一番の見せ場と言える有名な故事です。
この中国大返し、基本的な資料は秀吉の右筆である大村由己が書いた天正記の中の一巻「惟任退治記」に依拠する。「惟任退治記」は光秀を破った秀吉がその直後に書かせたもので、いわば政府の公式発表のようなもの。今で言えば東日本大震災直後の福島原発の問題で政府発表や東電発表の公式資料をあまり信用しないのと同じで、この「惟任退治記」をそおまま信用するわけにはいかない。しかし、その後の小瀬甫庵「太閤記」や黒田家譜もこれに依拠しているわけなので、今も通説としてはこの「惟任退治記」での中国大返しがそのまま信じられている。
安藤本、小和田本、諏訪本もこの「惟任退治記」の記述をそのまま書いており、それによる中国大返しのスケジュールは以下のようになる。
6月2日 本能寺の変
6月6日午後 備中高松発
6月7日朝 備前沼城発
6月7日夜 姫路着
この行程だと6月7日の半日で沼城から姫路まで直線で55km、道のりで約70kmを徒歩で移動したことになり、その前の高松→沼城の22kmを前日歩いていることから考えるとかなり無理な行軍である。小和田本は地図でこの移動を示しているにもかかわらず、この行軍が無理かどうかの吟味はしていない。
それに対し、渡邊本は「惟任退治記」以前の1次資料から、次のように中国大返しの行程を記している。
6月2日 本能寺の変
6月4日 高松→野殿(岡山市)
6月5日 野殿→沼城→
6月6日 →姫路
こちらでも強行軍だが、「惟任退治記」よりは無理ない。この中国大返し自体に吟味の必要があると指摘しているだけ、渡邊本が評価できる。
・関ヶ原戦後処理
天下分け目の関ヶ原が行われていた時、長男の長政は関ヶ原の戦場にいたが、官兵衛自身は九州の領地で留守をしていた。そこで挙兵して、西軍に属する大名の領地を次々に占領していった官兵衛が、戦後処理が終わって帰って来た長政と会話した話が有名である。
よく言われるのが常山紀談にある会話で、家康に手を取られて感謝されたと語る長政に対し、家康公が手に取った手は右か左かと問う官兵衛。長政が右手ですと言うと、その時お前の左手は何をしていた、と鋭く言う官兵衛。安藤本、大和田本、諏訪本では事実とはしないものの、この話には触れているが、渡邊本はまったく触れていない。
逆に、関ヶ原戦後処理で、黒田家自身が福岡に52万石を拝領したことの他、渡邊本のみが官兵衛・長政が毛利家の関ヶ原戦後処理に関与したことを記述している。
以上のように、それぞれの本ごとにいろいろと書く内容が違う。
私の独断と偏見で評価すると、以下のようになります。
まず、あまり歴史の知識が無い人が、ひととおり黒田官兵衛とその周辺を知るには、安藤本がいいと思います。余計に詳しくなく、いわゆる世に知れ渡ってる通説に沿った解説なので、まずは読んでおいた方がいいかも。大河ドラマもこの本にあるような通説どおりの歴史を踏まえた上で、独自の脚色や部分的に最近の歴史学の進歩を取り入れた、という形になっていると思います。
歴史、特に戦国時代に詳しくて、いろんな説を比較吟味して自分なりに考えたい人には、お勧めは渡邊本です。もう1冊読むなら、次は諏訪本でしょうね。いずれも1次資料から通説を批判し、おそらく実際はこうだろうという説明を納得がいくようにしてくれてます。
小和田本はねぇ・・・・、実は一番オススメではないです。これがあの大河ドラマの時代考証担当の人の著作かというくらい、ひどいです。ひどいというのは内容が違うとか、読んでいて面白くないという意味では無く、黒田官兵衛の本のはずなのに、他の3冊に比べ、黒田官兵衛の記述が非常に少ないんです。単なる信長、秀吉、家康の、よくある戦国時代の解説になっちゃってる。また、関ヶ原に呼応して九州で挙兵した官兵衛の動きを渡邊本、諏訪本は家康と事前に打ち合わせて出兵の許可を取っていると書いているのに対し、小和田本ではこの重要な部分を割愛して、単に官兵衛が天下を狙う野心で挙兵したように書いてある。これは人口に膾炙している通説では面白くそう書かれてますが、事実ではない。このあたりの書き方も、ちょっと小和田先生、大丈夫かなぁという感じです。全体としてツメが甘く、オススメできないです。
他にも、黒田官兵衛に関する本はいろいろと出始めていて、私もまだ全部は読んでませんが、もし大河ドラマを視てもっと調べたくなったら、上記に私が挙げた点なども踏まえつつ、たくさん読まれてみてはいかがでしょう。
竹村公太郎「日本史の謎は地形で解ける」 PHP文庫 [書評]
竹村公太郎「日本史の謎は地形で解ける」 PHP文庫
この著者は歴史学者ではなく、土木工学科出身で建設省にいたという土木屋さん。そういう経歴の人が土木工学の見地で日本史を読み解いたというユニークな視点の本です。一言で言うと、特に前半の江戸の歴史を読み解く当たりは非常に面白いです。
この人の”キラーアプリ”は著者も含めて日本地図センターが気候変動の解析の参考に出力した、海面を5mあげた場合の日本列島の地図。これはなにも地球温暖化の予測だけでなく、実のところ縄文時代(6000年前)は海面が今より数メートル上の水位だったということで、これが古代日本にも影響していたと考えるわけである。
この本にある、海面を5m上昇させた時の関東地方の地図を見ると、東京湾は今よりずっと深く内陸に食い込み、霞ヶ浦・北浦が合体してさらに海が内陸に入り込み、房総半島はほとんで”関東湾”に浮かんでいる島のように見える。この地図から、昔の東京から埼玉南部にかけた地区は湿地帯であることと、南関東を東西に歩いて横断することは不可能で、海が無い北関東の東山道を行くか、南を海路で行くかの2つしか選択がないことがわかる。
このことが、例えば伊豆半島に配流されていた源頼朝が東伊豆から三浦半島・房総半島と行き来していて、挙兵前から三浦氏や千葉氏などの豪族たちと交流があったという想像に発展している。
また、徳川家康が江戸に本拠地を構えたのは、土木工学的には卓見であって、まず江戸から関東地方のあちこちに(東京湾の海路で)行きやすいように、小名木川という日本橋から行徳までの運河を作って、海路・水路で荒川・利根川水系をたどって関東の領地のほとんどに簡単に行けるように水運を整備したこと。江戸城の石橋(俗に言う二重橋。本当の二重橋はその後ろの橋)は家臣が出入りする門だが、江戸城建設当時は湿地帯なので、正門はそちらではなく、以外にも新宿方向を向く半蔵門が正門であることを土木工学から明らかにしている。
半蔵門が江戸城の正門であることは、今でも今上天皇陛下しかその門を使わないという習慣からも証明できるのだが、この本ではさらに進んで、その天下の正門である半蔵門のあたりに赤穂浪士が潜伏していたことから、赤穂浪士は幕府に保護されていた可能性を明らかにしている。
また、一方、赤穂浪士が狙う吉良上野介の吉良家と徳川家は三河の塩田開発を巡って対立関係に有り(お得意の海岸線の変化図から、塩田開発が吉良家から徳川家に移っていったことを指摘してます)、さらに吉良家が元々室町時代は三河の守護職であったことから、吉良家は目の上のコブだったという可能性を指摘。つまり、幕府が赤穂浪士を助けるだけの理由がある、ということですね。このあたり、江戸湾の海岸線から始まって、全てが繋がっていって面白い。
この本は、そのあと京都・奈良・福岡に話が及ぶが、こちらは江戸の話(前半の大部分のページを使っている)に比べると迫力が落ち、江戸の話だけでは1冊の本としてページ数が少なすぎるので、ちょっと足しましたという感じがしてしまう。
しかし、前半の江戸の話だけでも、読み応えが有り、ひと味違った角度から歴史を考えてみたい歴史ファンにはうってつけと言える。
この著者は歴史学者ではなく、土木工学科出身で建設省にいたという土木屋さん。そういう経歴の人が土木工学の見地で日本史を読み解いたというユニークな視点の本です。一言で言うと、特に前半の江戸の歴史を読み解く当たりは非常に面白いです。
この人の”キラーアプリ”は著者も含めて日本地図センターが気候変動の解析の参考に出力した、海面を5mあげた場合の日本列島の地図。これはなにも地球温暖化の予測だけでなく、実のところ縄文時代(6000年前)は海面が今より数メートル上の水位だったということで、これが古代日本にも影響していたと考えるわけである。
この本にある、海面を5m上昇させた時の関東地方の地図を見ると、東京湾は今よりずっと深く内陸に食い込み、霞ヶ浦・北浦が合体してさらに海が内陸に入り込み、房総半島はほとんで”関東湾”に浮かんでいる島のように見える。この地図から、昔の東京から埼玉南部にかけた地区は湿地帯であることと、南関東を東西に歩いて横断することは不可能で、海が無い北関東の東山道を行くか、南を海路で行くかの2つしか選択がないことがわかる。
このことが、例えば伊豆半島に配流されていた源頼朝が東伊豆から三浦半島・房総半島と行き来していて、挙兵前から三浦氏や千葉氏などの豪族たちと交流があったという想像に発展している。
また、徳川家康が江戸に本拠地を構えたのは、土木工学的には卓見であって、まず江戸から関東地方のあちこちに(東京湾の海路で)行きやすいように、小名木川という日本橋から行徳までの運河を作って、海路・水路で荒川・利根川水系をたどって関東の領地のほとんどに簡単に行けるように水運を整備したこと。江戸城の石橋(俗に言う二重橋。本当の二重橋はその後ろの橋)は家臣が出入りする門だが、江戸城建設当時は湿地帯なので、正門はそちらではなく、以外にも新宿方向を向く半蔵門が正門であることを土木工学から明らかにしている。
半蔵門が江戸城の正門であることは、今でも今上天皇陛下しかその門を使わないという習慣からも証明できるのだが、この本ではさらに進んで、その天下の正門である半蔵門のあたりに赤穂浪士が潜伏していたことから、赤穂浪士は幕府に保護されていた可能性を明らかにしている。
また、一方、赤穂浪士が狙う吉良上野介の吉良家と徳川家は三河の塩田開発を巡って対立関係に有り(お得意の海岸線の変化図から、塩田開発が吉良家から徳川家に移っていったことを指摘してます)、さらに吉良家が元々室町時代は三河の守護職であったことから、吉良家は目の上のコブだったという可能性を指摘。つまり、幕府が赤穂浪士を助けるだけの理由がある、ということですね。このあたり、江戸湾の海岸線から始まって、全てが繋がっていって面白い。
この本は、そのあと京都・奈良・福岡に話が及ぶが、こちらは江戸の話(前半の大部分のページを使っている)に比べると迫力が落ち、江戸の話だけでは1冊の本としてページ数が少なすぎるので、ちょっと足しましたという感じがしてしまう。
しかし、前半の江戸の話だけでも、読み応えが有り、ひと味違った角度から歴史を考えてみたい歴史ファンにはうってつけと言える。
日本史の謎は「地形」で解ける【文明・文化篇】 (PHP文庫)
- 作者: 竹村 公太郎
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2014/02/04
- メディア: 文庫
【書評】ウォール街の物理学者 [書評]
ジェイムズ・オーウェン・ウェザーオール
「ウォール街の物理学者」
この本は、一言で言うと経済物理学という分野が成り立っていく過程を紹介した本と言える。経済物理学は金融工学と近い印象を持たれるかもしれないが、経済物理学の立場で言えば金融工学は金融に対しての物理学的アプローチをあるところで止めて、そこから金融限定で発展させたものと言え、本書で扱っている経済物理学の流れの中では、第5章のブラック(ブラック・ショールズ方程式)からの派生になろうか。
実は、金融工学で仮定している正規分布(対数正規分布)は、既に第3章のマンデルブロの時点で既に誤っていることが指摘されていて、実はブラック自身もその事に言及しているのだが、そのような慎重な面は無視されて、いけいけどんどんで応用が進んで行った金融工学が、リーマン・ショックなどで大打撃を受けることになる。
本書の内容は、そのような狭い意味での金融工学も述べられているが、それよりももっと大きな視点で、経済物理学・社会物理学という分野の発展を記述した本であり、それぞれの記述も非常にわかりやすいので、一気に読める。物理学をなにか素粒子や物性、生物以外に応用出来ないかと考えてる人たちにお勧めしたい本であるし、また、できれば経済側の人たちにも、同じ事象を物理学の立場ではいかに異なって捉えているかを勉強して欲しいと思う。
以下、ざっと各章を紹介する。
第1章 バシュリエ
アインシュタインに先だってブラウン運動の物理学を組み立てて、それを株価に応用した、20世紀初めの孤高の天才。株価の不規則な動きをブラウン運動であると仮定して理論を構築。バシュリエの名は知っていてもその人となりなどは知らない人が多いと思うので、本章でやっとその人の人物像が明確になった気がする。ぜひ、一読をお勧めする。
第2章 オズボーン
半世紀後、バシュリエの理論を受けて、株価自体ではなく、その変動の割合がブラウン運動であると指摘。これは株価自体は正規分布でなく、対数正規分布となることを意味する。バシュリエの理論を具体的に金融の場に応用するためには重要な1歩である。
第3章 マンデルブロ
いわゆるファットテールを初めて指摘。実際の株価の変動は正規分布や対数正規分布から外れていることを理論に取り入れた。マンデルブロが提案した修正案は生き残れていないが、金融の値動きは対数正規分布ではないという指摘は今も生きる重要な指摘である。
第4章 ソープ
ギャンブルの物理学。これを株価や資産運用に応用。実際に自分の研究成果に基づいて企業した初めての人という位置づけもある。
第5章 ブラック
いわゆるオプション価格設定のブラック・ショールズ方程式のブラックの話。方程式は有名だが、ブラック本人の話は日本語としては貴重。ショールズの話はあまり出て来ない。
第6章 ファーマーとパッカード
複雑系物理学の手法を株価予測や資産運用に応用。複雑系の研究の経験から来るブラックボックスモデルの話。
第7章 ソネット
突然の大暴落や大暴騰は、ちょうど小さな変化の積み重ねから起きる地震発生の予測のように、対数周期パターンで予測可能とする。現に彼はいくつか予測していたことも述べられている。
第8章
素粒子物理学で統一場理論(標準理論)のベースとなったゲージ理論を経済学に応用して新しい経済指標を提案するも、米政府委員会の政治的思惑と衝突し、挫折する。経済物理学は物理学と言っても経済という現実を扱うため、単純な真理の探究が許されない場合もあるという例。これは経済物理学がこれからも戦っていかないといけないテーマである。ある意味ではニュートンによる物理学という学問の提案も、当時の占星術界との軋轢を乗り越えて来た歴史があったのかもしれない。
「ウォール街の物理学者」
この本は、一言で言うと経済物理学という分野が成り立っていく過程を紹介した本と言える。経済物理学は金融工学と近い印象を持たれるかもしれないが、経済物理学の立場で言えば金融工学は金融に対しての物理学的アプローチをあるところで止めて、そこから金融限定で発展させたものと言え、本書で扱っている経済物理学の流れの中では、第5章のブラック(ブラック・ショールズ方程式)からの派生になろうか。
実は、金融工学で仮定している正規分布(対数正規分布)は、既に第3章のマンデルブロの時点で既に誤っていることが指摘されていて、実はブラック自身もその事に言及しているのだが、そのような慎重な面は無視されて、いけいけどんどんで応用が進んで行った金融工学が、リーマン・ショックなどで大打撃を受けることになる。
本書の内容は、そのような狭い意味での金融工学も述べられているが、それよりももっと大きな視点で、経済物理学・社会物理学という分野の発展を記述した本であり、それぞれの記述も非常にわかりやすいので、一気に読める。物理学をなにか素粒子や物性、生物以外に応用出来ないかと考えてる人たちにお勧めしたい本であるし、また、できれば経済側の人たちにも、同じ事象を物理学の立場ではいかに異なって捉えているかを勉強して欲しいと思う。
以下、ざっと各章を紹介する。
第1章 バシュリエ
アインシュタインに先だってブラウン運動の物理学を組み立てて、それを株価に応用した、20世紀初めの孤高の天才。株価の不規則な動きをブラウン運動であると仮定して理論を構築。バシュリエの名は知っていてもその人となりなどは知らない人が多いと思うので、本章でやっとその人の人物像が明確になった気がする。ぜひ、一読をお勧めする。
第2章 オズボーン
半世紀後、バシュリエの理論を受けて、株価自体ではなく、その変動の割合がブラウン運動であると指摘。これは株価自体は正規分布でなく、対数正規分布となることを意味する。バシュリエの理論を具体的に金融の場に応用するためには重要な1歩である。
第3章 マンデルブロ
いわゆるファットテールを初めて指摘。実際の株価の変動は正規分布や対数正規分布から外れていることを理論に取り入れた。マンデルブロが提案した修正案は生き残れていないが、金融の値動きは対数正規分布ではないという指摘は今も生きる重要な指摘である。
第4章 ソープ
ギャンブルの物理学。これを株価や資産運用に応用。実際に自分の研究成果に基づいて企業した初めての人という位置づけもある。
第5章 ブラック
いわゆるオプション価格設定のブラック・ショールズ方程式のブラックの話。方程式は有名だが、ブラック本人の話は日本語としては貴重。ショールズの話はあまり出て来ない。
第6章 ファーマーとパッカード
複雑系物理学の手法を株価予測や資産運用に応用。複雑系の研究の経験から来るブラックボックスモデルの話。
第7章 ソネット
突然の大暴落や大暴騰は、ちょうど小さな変化の積み重ねから起きる地震発生の予測のように、対数周期パターンで予測可能とする。現に彼はいくつか予測していたことも述べられている。
第8章
素粒子物理学で統一場理論(標準理論)のベースとなったゲージ理論を経済学に応用して新しい経済指標を提案するも、米政府委員会の政治的思惑と衝突し、挫折する。経済物理学は物理学と言っても経済という現実を扱うため、単純な真理の探究が許されない場合もあるという例。これは経済物理学がこれからも戦っていかないといけないテーマである。ある意味ではニュートンによる物理学という学問の提案も、当時の占星術界との軋轢を乗り越えて来た歴史があったのかもしれない。
【そのうち書評】ウォール街の物理学者 [書評]
今日、大学生協に行って見つけた本です。
「ウォール街の物理学者」。
この本は一人の人の体験記や、一人に焦点を当てた本ではないです。
このところ活躍しているクォンツと呼ばれる人たち、
数学や物理学の博士号を持ちながら金融の分野に進出して成功している
人たちの話を(主にアメリカですが)まとめた本です。
いわゆるブラックショールズ方程式の話も出てきます。
これから年末にかけて読むのにいいかなぁと思って買いました。
私も、金融はまだまだだけど、ヒット現象の数理モデルで
経済現象をどこまで記述できるのか、理論の発展を目指しているところなので
似たスタンスの人たちの活躍とその歴史は興味あります。
みなさんも、いかがですか?
特に物理学やそれに近い分野が専門の学生さんは
自分の専門を活かす道は、かならずしも卒論や修論のテーマだけではないと
就職活動の時に参考になるかもしれません。
いずれ、ちゃんと読んだら、書評もここに載せます。
ちなみに、この本とよく似た題名の本に「物理学者、ウォール街を往く」という
本がありますが、これは代表的なクォンツというべきエマニュエル・ダーマンという
人が自分の体験から書いた本で、併せて読むのにいいですが、別の本です。
「ウォール街の物理学者」。
この本は一人の人の体験記や、一人に焦点を当てた本ではないです。
このところ活躍しているクォンツと呼ばれる人たち、
数学や物理学の博士号を持ちながら金融の分野に進出して成功している
人たちの話を(主にアメリカですが)まとめた本です。
いわゆるブラックショールズ方程式の話も出てきます。
これから年末にかけて読むのにいいかなぁと思って買いました。
私も、金融はまだまだだけど、ヒット現象の数理モデルで
経済現象をどこまで記述できるのか、理論の発展を目指しているところなので
似たスタンスの人たちの活躍とその歴史は興味あります。
みなさんも、いかがですか?
特に物理学やそれに近い分野が専門の学生さんは
自分の専門を活かす道は、かならずしも卒論や修論のテーマだけではないと
就職活動の時に参考になるかもしれません。
いずれ、ちゃんと読んだら、書評もここに載せます。
ちなみに、この本とよく似た題名の本に「物理学者、ウォール街を往く」という
本がありますが、これは代表的なクォンツというべきエマニュエル・ダーマンという
人が自分の体験から書いた本で、併せて読むのにいいですが、別の本です。
【書評】新・ローマ帝国衰亡史 [書評]
この本はローマ帝国の仕組みとその歴史、特にいかに滅亡に向かっていったかをよく説明してくれている本です。ローマ帝国の研究の上でどれだけこの本の著者が重要人物かはわかりませんが、この本を読むと、今までのなんとなくの疑問が少し解けた気がします。なぜ強大なローマ帝国が衰亡していったのか、西ローマ帝国が滅亡したのに東ローマ帝国は維持できたのはなぜか、ローマ帝国がゲルマン民族に滅ぼされたあと、なぜローマ帝国の文化は西ヨーロッパの地で継承されなかったのか、など、いろいろな疑問に、ある程度答えてくれた本でしたので、そのあたりに興味あるひとは、ギボンの名著「ローマ帝国衰亡史」もいいですが、この本もオススメです。
この本を読んで、ローマ帝国と日本の歴史とをちょっと比較して考えてみました。
なんか、似てるところがあるんですよ。
ローマ皇帝は世襲ではありますが、本来は元老院議員のトップという位置づけで、元々日本の天皇家や中国の歴代王朝とは違うものです。なので、ローマ皇帝は、天皇や中国歴代の皇帝というよりも、むしろ摂政関白と似てるのかもしれません。その場合、強引に例えれば天皇に対応するのはキリスト教の教皇ということになります。
また、ローマ帝国の後半になると、広大な帝国を東西に分割して治めるなどで、皇帝が複数、あるいは皇帝と副皇帝などが出てきます。その後のヨーロッパの歴史でもこのローマ帝国の制度がなんとなく維持されているところがあって、王に対して皇帝というのはあくまでもヨーロッパではローマ帝国の皇帝のような存在なんですよね。つまり、王の中の実力者や有力な軍人(ナポレオンのような)が皇帝の位についてもかまわないし、ヨーロッパ大陸に複数の皇帝(ナポレオンの時代には、フランス皇帝、オーストリア皇帝、ロシア皇帝)がいても矛盾ではない、ということになります。このあたり、この本で、近代ヨーロッパの歴史についても納得した感じです。
ローマ帝国は、ローマ周辺の本国に対して、属州という植民地のシステムがありました。属州で土地の有力者はローマ化に励み、ローマで地位を得、ローマ市民にしてもらえる。これによって、その有力者らにその土地を治めてもらい、少ない公務員で広大な帝国の行政を維持してます。
日本で言えば、地方豪族の有力者が都に出て有力貴族に奉仕し、その見返りに正六位上のような末端の官位をもらうのに似てるかもしれません。都では大したことないですが、地方では官位があるというだけで、周囲から羨望の目で見られ、土地の支配に有利となる。このあたりは日本もローマ帝国も同じです。
ローマ帝国は出身に拘らず、人種・民族に拘らず、ローマへの忠誠心があれば、ローマ市民⇒騎士階級⇒元老院議員と出世していけたようです。日本では出自が問われたので、そこは違うかなぁ。日本の場合、官位は極位極官と言って、その家その家で定まっている限度の位階や官職を越えて、それ以上には付けないという不文律がかなり厳格に守られていましたから。
ローマ帝国は、属州の支配階級がローマに憧れ、ローマ化を目指している限り、安定していられました。つまり、ローマ帝国が直接属州を把握していたわけではなかったんです。このあたり、近代国家の領土支配とはまったく違います。
日本も古代中世で、都から遠い各地は中央貴族の荘園や、中央貴族が国司として赴任するとはいえ、実際のその土地の政治はその土地の有力者に任せているので、その有力者が都の中央政府に憧れている間は、安定して支配していられた。都の恩恵がありがたくなくなると、地方は中央政府の言うことを聞かなくなった(寿永の騒乱以降、鎌倉時代など)ので、ローマ帝国の支配の揺らぎと、似たところがありそうです。
ローマ帝国は後半になると軍人皇帝が何人も次々に現れて支配するようになります。これは、日本で例えると平清盛、源義仲あたりでしょうか。
西ローマと東ローマに分割は、強いて日本の歴史に例えると、室町将軍と関東公方かもしれません。いずれも国家自体を割ったわけではなく、東西をそれぞれ治めるという政治制度であったことは似ています。
さて、西ローマの滅亡は、決してゲルマン民族の大軍が押し寄せて、懸命に防御に努めたローマ帝国軍が敗れたわけではなく、ローマ帝国はローマ人の帝国という誤った保守的な考え方が広まって、属州を支配する非ローマ人が帝国から離れたから、とこの本では説かれています。
日本で言えば、平氏政権の滅亡や鎌倉幕府の滅亡がそれに似てますね。いずれも全国の国司を平氏だけ、全国の守護を北条氏だけとしたことで、現地の支配層が急速に中央政権から離脱し、反乱を起こした。
戦国時代も、一向に地方を向いてくれずに応仁の乱に夢中な守護大名達は、地方にとって不要とばかりに、各地を実際に治めている地元の有力者が自分で政治を見るようになったのの積み重ねで、戦国になっていった。
こんな風にローマ帝国の内情は、日本の歴史と重ね合わせると、似たところもあって、よくわかる気がしました。
この本を読んで、ローマ帝国と日本の歴史とをちょっと比較して考えてみました。
なんか、似てるところがあるんですよ。
ローマ皇帝は世襲ではありますが、本来は元老院議員のトップという位置づけで、元々日本の天皇家や中国の歴代王朝とは違うものです。なので、ローマ皇帝は、天皇や中国歴代の皇帝というよりも、むしろ摂政関白と似てるのかもしれません。その場合、強引に例えれば天皇に対応するのはキリスト教の教皇ということになります。
また、ローマ帝国の後半になると、広大な帝国を東西に分割して治めるなどで、皇帝が複数、あるいは皇帝と副皇帝などが出てきます。その後のヨーロッパの歴史でもこのローマ帝国の制度がなんとなく維持されているところがあって、王に対して皇帝というのはあくまでもヨーロッパではローマ帝国の皇帝のような存在なんですよね。つまり、王の中の実力者や有力な軍人(ナポレオンのような)が皇帝の位についてもかまわないし、ヨーロッパ大陸に複数の皇帝(ナポレオンの時代には、フランス皇帝、オーストリア皇帝、ロシア皇帝)がいても矛盾ではない、ということになります。このあたり、この本で、近代ヨーロッパの歴史についても納得した感じです。
ローマ帝国は、ローマ周辺の本国に対して、属州という植民地のシステムがありました。属州で土地の有力者はローマ化に励み、ローマで地位を得、ローマ市民にしてもらえる。これによって、その有力者らにその土地を治めてもらい、少ない公務員で広大な帝国の行政を維持してます。
日本で言えば、地方豪族の有力者が都に出て有力貴族に奉仕し、その見返りに正六位上のような末端の官位をもらうのに似てるかもしれません。都では大したことないですが、地方では官位があるというだけで、周囲から羨望の目で見られ、土地の支配に有利となる。このあたりは日本もローマ帝国も同じです。
ローマ帝国は出身に拘らず、人種・民族に拘らず、ローマへの忠誠心があれば、ローマ市民⇒騎士階級⇒元老院議員と出世していけたようです。日本では出自が問われたので、そこは違うかなぁ。日本の場合、官位は極位極官と言って、その家その家で定まっている限度の位階や官職を越えて、それ以上には付けないという不文律がかなり厳格に守られていましたから。
ローマ帝国は、属州の支配階級がローマに憧れ、ローマ化を目指している限り、安定していられました。つまり、ローマ帝国が直接属州を把握していたわけではなかったんです。このあたり、近代国家の領土支配とはまったく違います。
日本も古代中世で、都から遠い各地は中央貴族の荘園や、中央貴族が国司として赴任するとはいえ、実際のその土地の政治はその土地の有力者に任せているので、その有力者が都の中央政府に憧れている間は、安定して支配していられた。都の恩恵がありがたくなくなると、地方は中央政府の言うことを聞かなくなった(寿永の騒乱以降、鎌倉時代など)ので、ローマ帝国の支配の揺らぎと、似たところがありそうです。
ローマ帝国は後半になると軍人皇帝が何人も次々に現れて支配するようになります。これは、日本で例えると平清盛、源義仲あたりでしょうか。
西ローマと東ローマに分割は、強いて日本の歴史に例えると、室町将軍と関東公方かもしれません。いずれも国家自体を割ったわけではなく、東西をそれぞれ治めるという政治制度であったことは似ています。
さて、西ローマの滅亡は、決してゲルマン民族の大軍が押し寄せて、懸命に防御に努めたローマ帝国軍が敗れたわけではなく、ローマ帝国はローマ人の帝国という誤った保守的な考え方が広まって、属州を支配する非ローマ人が帝国から離れたから、とこの本では説かれています。
日本で言えば、平氏政権の滅亡や鎌倉幕府の滅亡がそれに似てますね。いずれも全国の国司を平氏だけ、全国の守護を北条氏だけとしたことで、現地の支配層が急速に中央政権から離脱し、反乱を起こした。
戦国時代も、一向に地方を向いてくれずに応仁の乱に夢中な守護大名達は、地方にとって不要とばかりに、各地を実際に治めている地元の有力者が自分で政治を見るようになったのの積み重ねで、戦国になっていった。
こんな風にローマ帝国の内情は、日本の歴史と重ね合わせると、似たところもあって、よくわかる気がしました。